御年99歳! 日本最高齢の巨匠、新藤兼人監督が「生涯最後の監督作」になるという「一枚のハガキ」をつくった。第23回東京国際映画祭にて審査員特別賞を受賞したこの映画は、第二次世界大戦末期を舞台に、「反戦への思い」と「たくましい人間の生命力」が見る者の胸を打つ、新藤監督の集大成的な作品である。主演は豊川悦司と大竹しのぶ。これまで国内外で数々の栄誉に輝いてきた映画界の"至宝"に、インタビューを試みた! 「生きているかぎり生きぬきたい」という監督のメッセージが込められた本作。"最後の映画"と監督自身は語っているが、そのかくしゃくたる姿に、まだもう一本!とさらなる活躍を願わずにはいられない。
―まずはこの話題から。今年の4月、ニューヨーク、ブルックリンのBAMシネマテークにて、新藤監督の回顧展が開かれましたね。作品選定をしたディレクターは世界的な俳優ベニチオ・デル・トロでした。
新藤兼人監督(以下新藤)「ベニチオ・デル・トロさんにはとても感謝しています。私の過去の作品10本と新作「一枚のハガキ」を先行公開してくれました。初日に上映したのは「原爆の子」('52)と「裸の島」('60)で、ニューヨークで「原爆の子」が上映されたのは初めてのこと。終映後、みんなが手を叩いてくれた。デル・トロさんは中でも、「裸の島」がいちばん好きなんだそうです。「裸の島」は私が映像の本質に迫ろうとした意欲作でした」
―新作「一枚のハガキ」は、新藤監督の実体験を基につくられたのですよね。
新藤「ええ。私は32歳のときに招集され、広島の呉海兵団に帝国海軍二等水兵として入隊しました。与えられた任務は、後に特攻隊となる予科練のための宿舎の掃除です。場所は奈良県の天理教本部。そこを掃除しろと命じられました。雑役ですね。招集された100人で1カ月間、宿舎を掃除し、終わったら100人の中から60人がフィリピンのマニラに陸戦隊となって行くことになった。選ばれた60人は輸送船に乗り、マニラに着く前に、アメリカの潜水艦にやられました。みんな、海の底に沈んでしまったわけです」
―劇中、監督がモデルとおぼしき松山啓太(豊川悦司)が、戦友、森川定造(六平直政)と語り合い、定造の妻である友子(大竹しのぶ)から届いたハガキを見せられます。あのハガキの文面は、実際に新藤監督が見聞きしたものなんでしょうか。
新藤「そうです。私はあの60人がフィリピンのマニラに出征する前夜、木製の2段ベッドで寝ていたんです。そうしたら上で寝ていた戦友が一枚のハガキを差し出したんですね。そこには『今日はお祭りですが あなたがいらっしゃらないので 何の風情もありません 友子』と書いてあった。奥さんからのハガキなんです。彼は明日フィリピンに行く。そして、こう私に言いました。『返事を書きたいが、検閲があるから、何も書けない。おそらく俺は死ぬだろう。もし君が生き残って友子と会うことがあったら"このハガキは確かに受け取った"と伝えてくれ』と。そして『たとえ死んでも霊魂となって、お前を守ってやる』と。そして、彼は、死んでしまいました・・・」
―切ない話ですねえ。
新藤「でもね、『霊魂となって守ってやる』と思っても、霊魂では奥さんのこと、守れないでしょ。だってこの世にはいないんだから。残念ながら現実はそうですよね。その後奥さんはどうなったか。きっと夫が死んで、女の一生は潰れましたね。国家から表彰され、戦争未亡人になっても、一家の中心の働き手の中心がいなくなったんだからそれはそれは厳しい運命を辿ったはず。戦争というのはね、ひとりの人間の人生を破壊するだけではなく、その家族全てをメチャクチャにする愚かな行為なんですよ。「あなたがいらっしゃらないので 何の風情もありません」というハガキにあるように、奥さんにとってそのご主人はどんなえらい人よりも誰よりも大切な人なんです。ひとりひとりの兵が誰かにとってかけがえのない大事な人なのです。結局、天理教本部にいた100人のうち、60人はマニラに着く前に死に、残りの40人中、30人は潜水艦で全員亡くなった。残る10人が宝塚歌劇団の掃除に派遣され、最後は10人の中から4人が海防艦に乗る機関銃士になって死に、残ったのは6人。その中に私もいました。私たちの運命を決めていたのは毎回、上官が引くクジだったんです」
―人の命がクジで左右されていたのですか。しかも他人の引いたクジで・・・。
新藤「そうなんです。それで次、どこに行かされるのか・・・と思っていたところ、戦争が終わった。私はずっとクジから外れて最後の6人まで残って、それで終戦になったんです。本当にうれしかったですね。またシナリオが書けると幸運を素直に喜びました。復員して松竹大船撮影所に復帰し、また映画の仕事をするようになりました。ところが仕事をするたび、私の運というのは、94人が代わりに死んでくれたから手にできた運なんだと気付きました。私が今日まで生きていられるのは、あの94人がいたからなんです。94人の上に生きているんです。私は94人の魂の重みを背負いながら、今まで生きてきて、最後に、ひとりの兵隊が見た戦争...それを映画にしました。反戦のメッセージだけでなく、どんなことがあっても人は立ち上がれる、という人間の力強さも描きました。これまでいろいろたくさんの映画をつくってきたけれども、自分の気持ちにやっとケリをつけることができました」
―やはり「一枚のハガキ」は、本当に最後の監督作になってしまうのでしょうか。
新藤「もう監督としては映画をつくりません・・・いや、つくれないんです。いろいろな仕事をしてきましたけど、96歳の頃、脚が悪くなり、歩行も困難になり、これは『いよいよ終わりが近づいてきたな』と思ったんですね。それで私が見た戦争を映画にしてからでないと死ねないと思い、『一枚のハガキ』をつくったんです。今、車椅子に乗ってますけど、撮影現場では全カット、私の孫(=新藤風さん)が車椅子を押してくれました。『今度はキャメラはここ』と私が指図するたびに彼女は車椅子を動かし、とてもしんどい思いをしたことでしょう。そうやって完成した映画です。でもやり残したことのないよう、映画人生を完成させることができたと思っています。」
1912年、広島県生まれ。'34年に京都、新興キネマの現像部に所属し、映画の世界に入る。美術部に在籍しながら、シナリオを書き始め、溝口健二監督に師事。「元禄忠臣蔵」では建築監督をつとめる。'44年、松竹大船撮影所の脚本部に移籍後、呉海兵団に二等水兵として入隊。終戦後、吉村公三郎監督と組んだ「安城家の舞踏会」('47)などで脚本家として高く評価される。'50年、独立プロ「近代映画協会」を設立。翌年「愛妻物語」で監督デビュー。
以後、「原爆の子」('52)、「第五福竜丸」('59)、「裸の島」('60)、「鬼婆」('64)、記録映画「ある映画監督の生涯」('75)など独創的、実験的な作品で、多くの国内外の映画賞に輝く。'90年代に入ってからも「?東綺譚」('92)、「午後の遺言状」('95)と数々の名作を送り出した。脚本家としては、映画だけで250を超える作品を手掛け、監督作は「一枚のハガキ」が49作目となる。
※本誌8月号では連載「三つ数えろ!」にも登場。監督自身が選んだ洋画3本について語っています
8月13日公開
※テアトル新宿、広島・八丁座にて8月6日先行公開
東京テアトル配給
戦争末期、松山啓太(豊川悦史)ら中年兵100人は、上官が引いたクジで赴任先を決められる。クジでフィリピン行きが決まった仲間の兵士、森川貞造(六平直政)に妻から届いたという一枚のハガキを手渡され、自分が死んだら、妻を訪ね、ハガキを受け取ったことを知らせてほしいと頼まれる。終戦を迎え、生き残った6人の内のひとりとなった啓太は帰郷するが、がく然とする事実が待ち受けていた。生きる気力をなくした啓太は森川との約束を思い出し、妻、友子(大竹しのぶ)のもとを訪ねる。その友子もまた戦争に翻弄され、すべてを失っていた。