「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」
あの事件を映画に出来るのは俺だけだ 若松孝二監督インタビュー

 社会を揺るがせた学生運動が終焉をみたのは1972年だった。あの年、長野と群馬の県境にある「あさま山荘」で起こったこと、そして群馬県内の山小屋で何人もが死んでいたこと。そのこと自体は誰もが記憶しているだろう。しかし、そこに至るまでに、若者たちの中で本当のところ何が起こっていたのか。今それを知るには、あの時代の生き証人である若松孝二がつくったこの映画「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)」を見るしか、もう方法はないだろう。

 本作は、2月27日にDVDリリースが決定した。そこで、なぜ今このテーマを映画化したのか、映画化にいたる道筋や公開後の反応、そして若松孝二監督自身が伝えたかったメッセージは何だったのか、ロング・インタビューを試みた。

このままでは、事件が矮小化されていく

ー映画化を決意した経緯を教えてください。

若松孝二(以下若松) 「この事件が起きた時から、誰かが映画にするだろうなあって思ってましたけどね、だけども僕がやっちゃうと連合赤軍側のプロパガンダと思われちゃうんじゃねえかっていうのがあったんで、誰かがやってくれることを願ってました。でもみんながなかなか腰を上げないし、僕もどんどん年をとってくるし。そしたら「光の雨」('01)が出てきた。(監督の)高橋伴明はウチ(注:若松プロ)にいたし、まあこんなもんだろうっていうね。そのうちに「突入せよ!あさま山荘事件」('02)が公開になった。まあこれが僕に火をつけたんですよね。これじゃあまりにもあの若者たちがかわいそうじゃないかと。私利私欲は全然なくてね、あのまま行けば大学を卒業して立派な就職が待ってた若者たち。貧乏人のために革命起こそうなんていう人たち。でもあの映画じゃひとつも表現されていないし、あの佐々(注:原作者の佐々淳行。事件時警察庁幹部として捜査を指揮)の自慢話みたいなことをね、真に受けられてしまう。僕はね、これは作家のやることじゃないと。ものを作ったり表現したりする人は、いつでも弱者の立場に立たなくちゃいけないって言うのが僕の持論なんでね。で、そろそろ自分が作らないと、どんどんどんどん事件が矮小化されていくんじゃないかとね。 けど、カネがないよね。こういう映画っていうのは金がかかるからさ。一応ホンを作って金を集めたけど、誰もに『こんなん作ったって』っていう感じがあった。前売り券を先に買ってくれねえかっていうのをやったりしましたけども、(学生)運動やってたヤツとか映画を作ってるやつっていうのは、1枚も買ってくれなかった。こいつらはみんなだめなんだよ。いいじゃないか1000円や2000円の話なんだから、ねえ? 飲み屋に行ったってすぐ2000円くらいかかるぜ。なあ? テメエは酒食らってるくせにさあ。それで、預金が少しあったし、名古屋の映画館を担保に入れ、千駄ヶ谷にあったウチの土地(の地価)が上がったんで銀行が金を出してくれてね。山荘はまあ、15〜16年前に作った別荘があるからね、それをみんなぶち壊しゃいいだろうと」

ー走り出してから撮影が終わるまでどのくらいだったんですか?

若松 「一応撮影は3カ月、みんなを拘束したのはね。僕は、次のスケジュールがあるとか言う俳優さんは絶対ダメだって言ったの。この映画に徹底的に付き合う人以外はいやだって言ったね。スタッフも一人ひとり、毎月いくらあれば生活できるんだってことを聞いて、生活できるだけのカネは全部払うと。キャメラマンだからいっぱい払うとか、有名な俳優さんだから払うとかじゃなくて、全員同じだという」

ーキャスティングについて、聞かせてください。

若松 「キャスティングは全部オーディションをやったんですよ。条件としてはマネージャーとか付き人が付いてこないこと、一人で来いと。今度の映画は衣装はいない、メイクもいない、自分で全部やんなきゃいけない。衣装は全部自前だってことも言った。でも200人くらい来ましたよ。全員と一人ずつ話をした。僕はARATA(注:坂口弘役)って人も知らなかったし、坂井真紀(注:遠山美枝子役)さんも知らなかったんです。そしたら助監督が『坂井さんですよ!』って言うから『誰やそいつは』って。僕はあんまりテレビドラマとか見てないからねえ。ARATAは髪がこんなに長くて染めててね、でも2次オーディションのときに彼は坊主にして来たんですよ。あれ、こりゃやる気があるな、一人くらい名前の売れてるヤツが入ってもいいかな、と」

ー若い役者さんたち、あの時代の雰囲気を全く知らない世代に、どういうふうに指導したのかなと。

若松 「演技指導というのはしなかったけども、メイキング見るとよく怒ってたよね(笑)。演技指導じゃなくて雰囲気づくりをしたの。なんて言うのかな、普通だったらキャメラで撮ってるこっちではみんな遊んでるじゃないですか。そうじゃなくて(写ってなくても)同じようにみんな芝居をする癖をつけるんです。最初に言ったのは『みんなオペラ見たことあるか、いいかオペラっていうのはな、一番後ろのほうにいる見えない人でも、双眼鏡で見るとちゃんと芝居してるぞ』と。だから自分が写ろうが写るまいが、その場の空気をみんなで共有しないとダメだと。ね? 山の中の小屋へ自分でリュックを担いでいくじゃないですか。一人づつどこに自分の荷物を置くか、決めさせたんです。自分だったらどこに座るか。それが不思議に幹部は幹部同士で座るんだよ。あれ面白いですよ、不思議なもんですよ。(撮影後)今日はお疲れさんって旅館に帰るでしょ、飯食った後みんなロビーに集まってきて。大きなストーブがガンガン焚いてあるんですよ。そうするとね、一番いい温かいとこにね、やっぱ森(役の俳優)と永田(役の俳優)がいるの。なんでか役の通りにそこに行くの。不思議なもんですね、人っていうのは。(撮影後)うちに帰ってね、温かいもの食って母ちゃんと同じ布団に寝て、次の日あー眠いって顔でおはようございますって言ったって、(この作品の演技は)できっこない。みんなを一つのとこに押し込めればそういう雰囲気になる。だから今でもみんな仲いいですよ。よく集まってますよ」

ーシナリオは監督が?

若松 「まあ3人でね。会話自体は忠実にやってますから。(左翼用語ばかりでわかりにくいが)あんなにわけのわかんないことしゃべってたんだよ(笑)。でも(左翼用語は)、わかんなくてもいいこと言ってるように聞こえるんだよ。あれで女の子はみんなだまされちゃう。昔はね、全共闘に女の子だますためにみんな入ったの(笑)。女性はああいうことを言われるとね、ああいいことやってるなあって思うらしいよ。頭がよさそうに聞こえるんだよ。まあ、みんなをオルグしていく話術ですからねえ」

ーでも、総括を求められる原因って些細なことですよね、水筒忘れたとか化粧をしたとか。あんな下らないことで殺された人の存在は何だったんだろうと。

若松 「普通の生活をしている人にはわかんないんだよ。ああいう生活してると、(総括を求められても)ああそうかって思っちゃう。そりゃ思っちゃいますよ、集団心理ってのはそういうもの。今のいじめだってそうだし、相撲部屋にだってあったじゃないですか。普通の社会にだってありますよ。ちょっと社長に楯突いたら遠くに飛ばされちゃったりね、殺しはしないけども。結局どんどんそういうふうに、上の顔色を見るようになっちゃう。何とか悪い所を見せないようにしたり。正直に言えば殺されちゃうんだから。そういう空間には闇みたいなものがある」

国に刃を向ける表現者が出てきてほしい

連合赤軍事件はよく覚えていますし、内側で起こったことをずっと知りたかったですが、本当にあんなことが起こっていたと知って怖くなりました。

若松 「実際にあんな事が起こってたんだよ。僕もこの作品のホンを書き出してから坂東國男(あさま山荘事件で逮捕されるが、のち超法規的措置で国外脱出。その後日本赤軍として活動)と会ったとき、ちょうど3〜4年くらい前かな、そろそろ中での話を聞かせてくれよと言ったの、デカン高原で。そしたら(坂東は)『自分はここを抜けて別のところでコマンドになる、明日にも死ぬかもしれないから、死ぬ前に監督にだけ話します』と。で、あの中で起きたことを話してくれたんです、こうだったと。それで僕はこの映画を撮る気になったんです。("一部フィクション"って断り書きを入れたのは、)加藤少年が最後に「勇気がなかった」というシーンのせい。(注:山荘立てこもり犯の最年少で兄をリンチ殺害された)少年があのあさま山荘の中で坂東にね、『坂東さん、勇気を持ってね、永田さんと森さんに(リンチは)もうやめようよと言ったら、お兄ちゃんは死なないで済んだかもしれない』って言ったらしいんです。そのとき坂東はものすごく凹んだって。それを聞いたんでね、これを使わない手はないなと思ってね。それを僕もお客さんに言いたかったし。劇中では彼は叫ぶわけで、そこはフィクションだけど。ドキュメンタリーじゃないからね」

ー勇気がなかっただけじゃないかっていうあの叫びは、テーマのひとつだった。

若松 「坂東はあの時ホントにつらかったって言ってた。あの一番年下の少年は、今でも病院に入ってるっていうからね。まだずっと(事件を)背負ってるから。躁鬱病らしい」

ー本作を関係者に見せて感想を聞いたということですが。

若松 「ドイツの(ベルリン国際映画祭の)帰りにレバノンへ寄って、坂東に見せようと思って4日間探したんだけど、結局は本人と会うことができなくて。それで、帰ってきてすぐ北朝鮮に行って、よど号ハイジャック犯の連中にDVDを見せました。俺たちはもうこっちに来ちゃったんだから責任はない、って言ったら俺は怒ろうと思ったけども、やっぱり『俺らにも責任がある』ってものすごい反省してましたね。涙流してました。彼らがなんて言うのかが、僕は聞きたかったんですよね。俺は関係ないや、もう日本にいないんだから関係ないやって言ったらミもフタもないだろって思ったんだけども、彼らはみんなやっぱり、あの事件に関してはそうじゃないと。映像として見せられたのがつらかったんじゃないですか」

ー(注:連合赤軍メンバーで服役済みの)植垣(康博)さんも?

若松 「植垣はもう大喜び。オレがあんないい男だって。でも彼は、『俺たちは夜しか移動しなかった。映画は昼間移動してるじゃないか』って言うの。『バカ野郎お前、夜なんか写らねえんだ』って(笑)。『君たちがあの山のすそを、寒い所をね、山を越え谷を越えたこと、俺はそれだけを表現したかったんだ。昼間はいつ(警察に)見つかるかわかんねえから(移動しない)、そんなこと知ってるわ』って。彼はもう大変嬉しがって、静岡で本作を上映した時もたくさん動員してくれて。
いろんな人が見てますよ。みんな喜んでくれてね。文句言ってくるヤツがいたら、それもスキャンダルにしてやろうと思ってたんですよ。堂々と受けて立つってね。やっと今になって、自分たちは実は学生運動してたんだっていう人たちが出てきたでしょ。堂々と(彼らが)テレビにも出るようになったしね、最近は、東大闘争や全共闘闘争(のドキュメンタリー番組)をNHKで放映したりすると、かつては絶対に(表に)出てきたことはなかったのに、実は私はあそこの御茶ノ水解放区にいたとかね、東大で指導したとかって言う人が(出てきた)」

ー彼らは今でも、あの頃やっていたことに誇りがあるというか、正しかったと?

若松 「自分たちが街に出てね、一生懸命になってベトナム反対とかやったことはそりゃ正しいとみんな思ってますよ。でもそういうことを言うと村八分になるんじゃないかとか、変な目で見られるんじゃないかとか。体制側が(彼らを)、ホントに悪いヤツだ悪いヤツだって宣伝してるから。ね? 徹底的にカミソリ後藤田(注:正晴。当時の警察庁長官)がそういうシナリオを書いたわけだから。そりゃあもうみんな、女房子供とかのことを考えたりしたら、堂々と俺はあの頃(活動を)やってたって言えないですよ。今回の助監督の男の子の親がブントだったんですよ。お父さんお母さんの2人とも。彼はそれまで、一回も聞いたことはなかった。この映画をやることになってやっと、お父さんもお母さんも昔学生運動してたんだよって言ったらしい。それをそれまで一言も言わなかった。それが今やっと言えるようになった」

ー全共闘世代もリタイアする年代になってます。過去をお墓に持っていく前に。

若松 「見ろ!と。DVDを買って見ろ!と。俺もそうだけど、そろそろもうみんな逝く年になってきてるわけだからその前に、ね? 俺が作らなかったら、こういう映画作る人はいないでしょ。ああいう映画をね、ああいう形でつくる監督はおそらくこの後もう出てこないですよ。だから作ったんですよ。僕もそろそろ逝く前にみんなに見て欲しくて。DVD買って見ろと」

ー次回作の話を。

若松 「戦争の話ですね。ホンが出来てるのは江戸川乱歩の『芋虫』。(映画が)できたらもうすさまじい話になると思いますけどね。はっきり言うとね、もうイヌが死んだりがんで恋人が死んだりね、そんなのどうでもいいんですよ(笑)。もうね、ネコが可愛いなんてどうでもいいんだそんなの。"こういう時代があった"ってことを昔からやりたかったんですよ。映画には時効がないですから。ネガさえ残ってれば必ず(誰か見てくれる)。僕の映画がどれだけヨーロッパでかかってるか。今も日本でどれだけ上映されてるか。僕の映画だけですよ特集できるのは。40年経っても上映されてんだから。それを若い人が見に来てるんです。だから映画には時効がないっていうんです。僕が死んで何十年か経ってから、そうか、70年代にこういう事件があったのかとみんながわかってくれれば。昭和ってこういうことがあったんだなってわかってくれれば。戦争反対したんだなとか。映画作ってる人はね、つまんねえ映画作ったり学校の先生ばかりやってないで、撮れ! って言いたいんだよね。1人や2人は出てきて欲しいんですけどね、国に刃を向けるヤツ。別にゲバを持って突っ込めって言わないけれども、表現てのはそういうもんだ。いつでも監視する側になりなさい。どんな政治でも監視する役になるのが作り手なのね。僕が言ってるのはいつもそれですよ」

プロフィール

若松孝二

1936年宮城県生まれ。新宿で映画の撮影現場の用心棒をしたことがきっかけで、テレビ映画の制作助手になる。26歳で「甘い罠」を監督し、ピンク映画と呼ばれるジャンルを確立する。「壁の中の秘事」('65)など成人映画でありながら明確なメッセージを持つ作品群は、'60年代後半から'70年代のカウンターカルチャー・シーンを担い、学生を中心に圧倒的な支持を得た。'71年、イスラエル占領下にあるパレスチナのゲリラ闘争を描く「赤軍-PFLP世界戦争宣言」を発表。爆弾テロを描いた翌'72年の「天使の恍惚」とともに、映画が時代を作る、と評された。その後もピンク映画を撮り続ける傍ら、大島渚の「愛のコリーダ」('76)などをプロデュース。80年代から一般映画を手がけるようになり、「水のないプール」('82)「キスより簡単」('89)「寝盗られ宗介」('92) 「17歳の風景」('05)などがある。

「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)」

2月27日DVD発売・レンタル CCRE発売 4935円

日本赤軍との関係も深い若松孝二監督が、革命を叫ぶ若者のそばから1972年の連合赤軍・あさま山荘事件に迫る人間ドラマ。殺害される運命の遠山美枝子を坂井真紀、中心メンバーである永田洋子を並木愛枝、坂口弘をARATAが熱演。狂信的な連合赤軍メンバーの革命への夢が、悪夢へと至るプロセスが臨場感たっぷりに描かれる。壮絶なリンチシーンは目をそらしたくなるほど衝撃的だが、それ以上に彼らの思いが圧倒的な力強さで表現されている。テレビ視聴率89.7%、日本中の目を釘付けにした「あさま山荘」の内部では、一体何が起きていたのか。彼らはなぜ、山へ入り、同志に手をかけ、豪雪の雪山を越え、あさま山荘の銃撃戦へと至ったのか。

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